top of page
  • 執筆者の写真Masayuki Kano

蓼科高原日記/語り得ぬ想い



2017/09/25(月)の蓼科高原標高1700mピラタスの丘:

朝から快晴でとても爽やかな一日になりました。

絶好の行楽日和登山日和が続いています。

雨や雷もなく風もなくて心地よく穏やかな天気。

今朝の最低気温は3℃。日中の最高気温は13℃でした。

明日9月26日(火)は終日晴れ、9月27日(水)は晴れのち曇りの予報です。

ペンション・サンセットのを取り囲む森もすでに黄色く変化しています。もうすぐ(それは2週間後、あっという間です)紅葉シーズンです。

「静けさと癒やしに満ちた蓼科高原」で皆様のお越しをお待ちしております。

★★★

「語り得ぬ想い」というテーマで当時の「蓼科高原日記」に連続エッセイを書いたことがあります。まだ「ブログ」と言う呼称がなかった時代のことです。

「世界の無意味性についての探求」こそがその頃のわたしにとっての最大の関心事でした。

こういうとごたいそうですが「この世の中の不公正さや人生のナンセンスさのようなもの」に辟易としていたと言うことです。

別の言い方をすれば「報われない(ように自分には思われる)この世界の構造」に落胆していたといっても良い。

多くの若者や年齢に関係なく多くの真摯に生きようとする人々のひとつの疑問、「人生の意味」を求めて永遠に続くかも知れないぬかるみの中を歩んでいたわけです。

こう言うといまはそうではないように聞こえるかも知れません。

はい、そうなんです、いまは違います。

悟りを開いたわけでもないしこの世界の秘密を発見したわけでもない。

あきらめたんですよね。まことにおだやかな「諦念」がわたしにも訪れたのです。

いいだろう、この世界は無意味に存在するのだ、人生に意味など無いのだ、って。

やけになっているのでもなければ、拗ねて(すねて)いるのでもない。

問いの立て方が誤っていたことに気づいただけなのです。答えのない問いを立てていただけだということに。

それは神が在っても無くてもかわりありません。神様だって答えられないのですよ、たぶん。

「意味」と「価値」とを、その決定的な違いを認識しなければならなかったのです。

さらに「与えられる意味」と、「与える意味」とがあること。

「意味」とは「解釈」であり、「価値」とは「評価」であると言うこと。

わたしたちが「関与」できるのは後者(つまり「価値」)のみだと言うこと。

世界の「価値」、人生の「価値」をこそ問うべきであり、それによってわたしたちは「生きる意味」という呪縛から解放される。

「意味」という呪縛。

わたしはいま穏やかに生きることができるようになっています。

「生きる意味」は見つけられないかも知れないが、「生きる価値」はあるのだ。

ただし自分が生きる価値は自分自身の評価である。だから自分が主体的に生きない限り現れることもないし定まることもないだろう。

そんなことで、まあとりあえず死ぬまでは生きてやろうと思っている。そのぐらいの価値はあるだろうって。

★★★

紅葉の見頃は白駒池付近で9月下旬ないし10月上旬、ペンション・サンセット付近は10月中旬、観音平など奥蓼科横谷峡は10月下旬、御射鹿池も同様です。ただし紅葉は微妙な気象の変化で変わってきますのでピンポイントでの見ごろは分かりません。 蓼科はどこに行くにもちょうど良い距離にあるいま流行の「ハブ空港」のような存在だと思います。蓼科で心身を休め、ここを起点にして様々な観光地や山歩きやその他の活動に出かける、その基地として最適の立地なのです。 皆様のお越しを「癒やしに満ちた秋の蓼科高原」でお待ちしています。

170919-DSC06775-12

Sony α7, Voigtlander NOKTON classic 40mm F1.4 MC VM + Voigtlander VM-E Close Focus Adapter

閲覧数:4回0件のコメント
bottom of page