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  • 執筆者の写真Masayuki Kano

蓼科高原日記/幻想で何が悪い?



真横から射し込む秋の光、高原ならではの風景です。蓼科高原ペンション・サンセット

2017/09/26(火) 上空をタカやワシなどの大型猛禽類が旋回しているせいか、野鳥たちはひっそりと生息しているようです。 春から夏射かけてのあの未明の大合唱はすっかりなりを潜めてしまいました。毎年この季節はそうなのですが、ちょっと寂しいです。まあ、彼らも生命の方が大切ですからしょうがない。 今朝の最低気温は4℃。日中の最高気温は14℃でした。 明日、9月27日(水)は晴れのち夕方から雨の予報です。 蓼科高原はあと1,2週間で紅葉シーズンです。 「静けさと癒やしに満ちた蓼科高原」で皆様のお越しをお待ちしております。 ★★★ 語り得ぬ想いというテーマで書いた過去記事を再掲載しようと書き始めた序文のつもりだったのですが、どうもまったく新しく書いた方がいいような気もしてきました。 いまわたしが最も興味を持って体験的に見守っているのは「わたしとわたしの周りの人々」です。以前は「この世界(あるいは、この宇宙)とわたしという存在」だったのですが。 ウィトゲンシュタインの言うように、 「世界の意味は、世界の外側に存在していなければならない。世界のうちでは、一切はあるがままにあり、起こるがままに起こる。世界のうちには、いかなる価値も存在しない。それゆえ、いかなる倫理学の命題もまた存在しえない。」 「語りえないものについては、沈黙しなければならない。」 と言う結論にわたしも到達したのです。 異論はあると思うけれど、わたしにとってはこれが最も収まりの良い結論です。 すくなくとも便宜的にはそうなのです。 わたしが語る「世界の無意味性」とはそのようなことです。 しかしいまわたしがこころ惹かれているのは意味も価値もある世界です。「わたしとわたしの周りの人々」は手を伸ばせばその体温を感じることが出来る、心交わすことも出来る存在だからです。 たとえそれが夢や幻想だったとしても、わたしは満足だし心から幸福を感じることができる。夢で何が悪い?幻想で何が悪い? 神が人を救うことが出来ないように、愛もまたそれのみで人を救うことは出来ない。 しかし、ひとは愛のうちに癒やされることが出来る。たとえ「愛」が人を救うことが出来ないとしても、愛すること(愛するという行為)がひとの心を救済することは出来るだろう。 マスメディアが語り、世にあふれかえるプロパガンダとしての「愛」をわたしは信じない。(愛は地球を救う、とかね) しかし「わたしとわたしの周囲にあまねく在るこの愛」をわたしは信じることができる。 ★★★ 紅葉の見頃は白駒池付近で9月下旬ないし10月上旬、ペンション・サンセット付近は10月中旬、観音平など奥蓼科横谷峡は10月下旬、御射鹿池も同様です。ただし紅葉は微妙な気象の変化で変わってきますのでピンポイントでの見ごろは分かりません。 蓼科はどこに行くにもちょうど良い距離にあるいま流行の「ハブ空港」のような存在だと思います。蓼科で心身を休め、ここを起点にして様々な観光地や山歩きやその他の活動に出かける、その基地として最適の立地なのです。 皆様のお越しを「癒やしに満ちた秋の蓼科高原」でお待ちしています。 ペンション・サンセット お料理自慢の宿:https://www.p-sunset.com/ 170925-DSC06995-C1 4 Sony α7, Voigtlander NOKTON classic 40mm F1.4 MC VM + Voigtlander VM-E Close Focus Adapter

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